分からないままで、十分だ。
南海の帝を 儵 といい、
北海の帝を 忽 といい、
中央の帝を 渾沌 という。儵と忽はしばしば渾沌の地で出会い、
渾沌はふたりを、丁重に迎えた。ある日、儵と忽は相談した。
「人には皆、目・耳・口・鼻の七つの穴があり、
それで見、聞き、食べ、息をする。
渾沌だけが、それを持っていない。
試みに、彫ってあげよう」と。日に一つ、穴を彫った。
七日目に、渾沌は死んだ。
荘子『応帝王』篇
混沌は、なぜ死んだのか。
目、耳、口、鼻──これらは、世界を分割する道具です。
これは「見る」もの、これは「聞く」もの、これは「食べる」もの。
分けることで、機能が生まれます。
分けることで、効率が生まれます。
けれど、分けられない全体としての混沌は、その瞬間、消えてしまう。
儵と忽は、悪意なく、親切で彫った。
これが、寓言の核心です。
親切な分割こそ、最も気付きにくい暴力なのです。
日本の神道では、混沌は別の姿をしている。
『古事記』の冒頭、世界はまだ 天地未分 の状態にある。
それは「死」の状態ではなく、「これから、すべてが生まれてくる」状態。
混沌は、空白ではない。
すべての可能性が、まだ分かたれずに、そこに在る。
中国の荘子は、混沌の 死 を悼んだ。
日本の神道は、混沌からの 誕生 を祝った。
ふたつの混沌は、矛盾していない。
同じひとつのことを、別の角度から見ている。
Konton は、その両方を継ぐ場所として、ここに在ります。
Konton は、占いではありません。
神獣は、占い師ではありません。
御神籤は、未来を当てる道具ではありません。
神獣は、あなたの隣で、見守る者です。
御神籤は、未来ではなく、今日のあなたを映す鏡です。
七章のものがたりは、診断ではなく、手紙です。
ここで差し出すのは、答えではなく、姿勢です。
あなたはもう、知っている。
──それを、思い出すための場所。
混沌のままで、十分だ。
未完のままで、十分だ。
分からないままで、十分だ。