澄み、見えてくる
清明は、外から答えを得る時ではなく、澄みのなかで内なる輪郭が自ずと現れる季節である。
春の気が、澄んで明るくなる。清明は、二十四節気の五番目。春も深まり、万物の輪郭が、やわらかな光のなかではっきりしてくる頃です。新暦の四月五日ごろ、太陽黄経が十五度に達する日を境に始まり、およそ二十日続きます。文字通り「清らかにして明らか」── 空は霞みを脱ぎ、風は軽く、水辺にはいのちの往来が戻る。燕が来たり、雁が北へ帰ったり、虹が初めて姿を見せたりする季節です。
玄鳥至。燕が南から渡ってくる頃。軒先をかすめるその身軽な飛び方に、春がただ暖かいだけでなく、たしかに動き始めたことを知ります。燕は、人の暮らしの近くに巣をかける鳥です。だから古くは、その来訪を吉い兆しとして迎えてきました。清明初候は、遠くから来るものを静かに受け入れる時期です。新しい変化もまた、たいていは大きな音を立てず、燕のように、すっと日常へ入ってきます。
鴻雁北。秋に渡ってきた雁が、北へ帰ってゆく頃。来るものがあれば、去るものもある。春は芽吹きの季節であると同時に、役目を終えたものが静かに場を離れる季節でもあります。雁の列が空の奥へ小さくなっていくのを見ていると、引き留めないこともまた、自然の礼であると知らされます。清明次候は、残すことより、見送ることを学ぶ時期です。去るものを追わず、空いた場所に新しい気が入るのを待てばよいのです。
虹始見。春の雨上がり、淡い光のなかに、虹が初めて見え始める頃。虹は、そこに物としてあるのではなく、光と水と見る位置がそろったときにだけ現れます。東洋では、こうした現れを、無から有が生じたとは見ませんでした。見えなかったものが、見える条件を得ただけだと考えたのです。清明の「明」は、何かを無理に照らし出す明るさではない。もともと在ったものの輪郭が、静かに立ち上がる明るさです。
Konton の神獣体系では、清明は木気がのびやかに整い、そこへ清い陽気が差し込む時期です。勢いだけで伸びる春ではなく、伸びるものの筋道が明るく見えてくる春。木は上へ向かいますが、濁れば枝を乱します。だから清明に大切なのは、がむしゃらな前進より、気を澄ませることです。身の回りを整え、言葉を濁らせず、見る目を曇らせない。清明は、進むために明らかになる節気として、静かに尊ばれてきました。